アム・オグリ工房
イラン史上、最高品質の絨毯を生み出した工房です。
アム・オグリ工房の設立者ABDOLMOHAMMAD(アブドルモハンマッド)は、タブリーズ生まれのマシャード育ちという経歴の持ち主です。彼の父、MOHAMMAD KAHNAMOUII (モハマッド・キャーナムイ)はタブリーズで絨毯などを扱う繊維商社を営んでいましたが、1870年代に巡礼の旅でマシャードを訪れた際に聖地にすっかり魅入られ、何年か後には家族を連れタブリーズからマシャードに移り住みました。そしてその後、彼は名字をキャーナムイからAMU-OGHLI(アム・オグリ:トルコ語で意味は「従兄弟」ただし、ニュアンスとしては親しみを込めて呼ぶ「お兄ちゃん」に近い)に改名しました。
モハマッド・キャーナムイの長男として移住前にタブリーズで生まれたアブドルモハンマッドは、その後1895年生まれで歳が20ほど離れた弟ALIKHAN(アリハーン)と共にイラン史上最高品質の絨毯を生み出したとされるアム・オグリ工房を設立します。初代パーレビ国王が王位についたのは遡ること約80年前のことですが、数年経った1931年彼が宮殿用の絨毯をつくるのに選んだのが、当時質の高い絨毯製作に定評のあったアム・オグリ工房でした。国王から受けた初めての注文はサイズが10m×14m(140u)で織りが90ラジの絨毯3枚でした。そのうち2枚は宮殿にあとの1枚はイランの国会で使われるものでした。
上記3枚の注文によってアム・オグリの名はさらに広く世に知られ、そこで製作される絨毯は絶大の信頼を誇りました。その後もこの工房では様々なサイズで80から140ラジの極めて質の高い絨毯が製作され、王宮・国会・士官クラブを始めイマム・レザーの霊廟などに納められています。多彩な絨毯デザインはマシャードをはじめ、その他エスファハン・カーシャン・ケルマンなどで描かれたものが起用されています。また工房責任者としてその力量を発揮したアッバースゴリ・サーベル工房での任務を完了後に独自の工房を開き、成功者としてその名を残しています。
国王からの名誉ある注文を受けた絨毯3枚のうち最後の1枚の完成を待たず、床から約1m織り上げたところで兄のアブドル・モハンマッドは1937年にこの世を去りました。その後アリハーンによって約10年間アム・オグリ工房では絨毯が製作されましたが、1947年をもってその歴史は幕を閉じました。後にアブドルモハンマッドの次男レザーおよび、アリハーンの次男チャンギーズによって再びアム・オグリ工房が復活、比較的目の粗い絨毯を製作しておりましたがそれも長くは続かず、しばらくすると工房は閉鎖されました。タブリーズからの移住者が数百年間衰退していたマシャードの絨毯に新時代をもたらし、その伝統を見事に復活させたのがアム・オグリ工房です。
・デザイン |
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・色 |
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・技術力 |
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・素材品質 |
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・総合評価 |
選定材料不足のため未評価 |
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